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2019/07/9

挫折からの再挑戦、創業4年で上場したGameWith創業者とVCの裏話

執筆者:

Zero to Impact編集部

2013年6月に創業したゲーム情報メディア「株式会社GameWith(以下、GameWith)」はマンションの一室から始まり、瞬く間に成長。わずか4年で上場という成功を果たしたスタートアップ企業だ。上場後の現在も英語圏や中華圏など海外展開を進めるほか、ゲーム情報メディアだけにとどまらないプラットフォーム展開を視野に、eスポーツ分野など幅広く事業拡大をしている。

そのGameWithを創業時から率いてきた代表の今泉卓也氏と、ベンチャーキャピタリストとして支援してきたインキュベイトファンドの村田祐介氏は、GameWith創業前に立ち上げたゲーム会社を清算するという苦渋の決断を経験している。その直後に再起を即決し、立ち上げたGameWith創業ストーリーを赤裸々に語った。

(対談は2019426日にインキュベイトファンド主催で東京・六本木で行われた。会場には起業家や起業志望の若手・中堅ら60名が集まった。対談の聞き手はインキュベイトファンド HRマネージャーの壁谷俊則氏、編集はITジャーナリストの西村賢氏が担当)

今泉卓也(いまいずみ・たくや) 株式会社GameWith 代表取締役社長
1989
年生まれ。慶応義塾大学卒。 2012年、在学中にソーシャルゲーム会社の創業に参画し、取締役CTOとして開発全般をリード。 2013年に株式会社GameWithを創業し、代表取締役社長に就任。GameWith 20176月に東京証券取引所マザーズ市場に上場。

村田祐介(むらた・ゆうすけ) インキュベイトファンド General Partner
1999
年に金融機関向けSaaSスタートアップに創業参画し開発業務に従事した後、2003年にエヌ・アイ・エフベンチャーズ株式会社(現:大和企業投資株式会社)入社。主にネット系スタートアップの投資業務及びファンド組成管理業務に従事。2010年にインキュベイトファンド設立、代表パートナー就任。2015年より一般社団法人日本ベンチャーキャピタル協会企画部長兼ファンドエコシステム委員会委員長兼LPリレーション部会部会長を兼務。

2人の出会いはスタートアップの合宿イベント

今泉:皆さん、はじめまして、GameWith社長の今泉と申します。19893月生まれ、平成元年生まれです。ついこの間、30歳になりました。もともと大学は経済学部で文系なんですけど、大学在学中にプログラミングの勉強を独学でやって、大学在学中にいろんなIT企業のインターンをエンジニアとしてやっていました。そこである程度エンジニアとしての実績を積んだあとに、ソーシャルゲーム会社の立ち上げに参画しました。きっかけは、インキュベイトファンドが主催しているスタートアップ関連イベントの「Incubate Camp」です。

そこで出会った人と一緒に会社を作ろうということで、僕はCTOという開発の責任者という立場で、自らコードを書いてゲームを作っていました。これは後で話をしますが、その会社はいろいろあって2年で閉じて、その後の20136月にGameWithを創業しました。そこから4年、20176月にマザーズに上場して、2年ほど経過しました。今日はよろしくお願いします。

(会場拍手)

村田:初めましての方も多いと思うんですが、インキュベイトファンドの村田と申します。ベンチャーキャピタルの仕事をはじめて16年が経過して、この間17年目に入りました。2003年からベンチャーキャピタルの仕事をしていて、2010年に4人でインキュベイトファンドを立ち上げたという感じです。それ以前は自分でスタートアップをしていました。もともとコードが書けないのにソフトウェアの会社を作って、仕事をしながらエンジニアになっていったというのが最初ですね。最終的にそれは失敗して会社を閉じ、キャピタリストに転身しました。よろしくお願いします。

(会場拍手)

――最初の2人の出会いは?

今泉:初めてお会いしたのは、たぶん「Incubate Camp」の2回目で、そのキャンプの前にも事前のキックオフミーティングがあったので、その時ですかね。印象としては、村田さんは結構背も高くて、今よりもとがっていたと思うんですよね。ちょっと怖い人だなというのが第一印象でしたね。ただ、深く話すという感じではなかったですね。

村田:そうですね。当時2011年なんですけども、今泉さんはあのときはまだ大学3年生? 4年生?

今泉:あのときは大学4年生ですね。就活して一応、内定はもらっていました。

村田:当時、今泉さんはウェブルームという特定のサイトを見ているユーザーがリアルタイムに可視化されてユーザー間のコミュニケーションができるブラウザのエクステンション的なプロダクトを引っさげて、会社を作る前のプロダクトだけあるという状態でしたよね。投資家を付けて会社をスタートさせる気持ちも持って「Incubate Camp」に参加いただいていました。そのときにプログラム上キャピタリストと起業家が11のチームになるんですけども、そのときの今泉さんの相手になったのがグロービス・キャピタル・パートナーズの今野さんでした。

その2人のペアが一緒に議論していて、2日間に渡って今野さんにずっとしごかれている今泉さんを横目で見ていたというくらいの感じでしたね。印象としては、今とそんなに変わっていないですけども、口数もその当時からそんなに多くはなくて、すごくシンプルに物事を判断して目がギラギラしている人という感じでした。見た目の今とそんなに変わっていないですね。飄々としている印象を受けました。

――なるほど、今泉さんが今野さんとペアになっていたんですね。

村田:Incubate Campは、もともと起業家が持っているプランを一晩かけて磨いて、それで最終的に起業家がキャピタリストたちの前でピッチして順位を付けるという2日間のイベントなんですね。それで今泉さんは、ずっと寝ずにしごかれていて、朝もイベント会場の外の草むらに立たされて、その10メートルくらい先から今野さんが、ピッチを聞いていて「声が小さい!」みたいな感じでやってましたね。体育会系で怖いなと思いました(笑)

優等生から不登校に、レールを外れたことで分かったこと

――そんな出会いからスタートするわけですね。でも、大学4年生でそのキャンプに来るということは当時珍しかったのでは。今泉さんは、いつぐらいから起業したいと思っていたんですか?

今泉:僕は生まれが鳥取県で、小学校12年生まで鳥取県にいました。小学校は歩いて60分ぐらいのところ。人口もすごく少ないので1学年に40人もいない学校だったんです。その中で、僕は結構勉強ができるほうでした。人口が少ないので、学年問わず、みんな知っているくらい「あの子は優秀だ」って、ずっと小さいコミュニティーの中で言われていたんですね。いま振り返ってみると、そうやって漠然と自分の中で自信が育まれたのが大きかったんだろうなと思っています。父親の転勤で小学校3年生から大阪に引っ越して、そこから大阪なんですけどね。

中学2年生のとき、オンラインゲームにはすごくハマったときがありました。オンラインゲームってすごくおもしろいなと思って、一時期、学校にも行かずにずっとやっているという感じでした。最初は遅刻する程度だったのが、どんどん行かなくなるうちに学校に居場所がなくなって、ちょっと不登校みたいになっていたんです。ただ、当時の僕は、いい高校に行って、いい大学に行って、いい会社に就職しないと終わりだと思っていました。

親の世代が考えていたことを考えていたんですね。

今泉:ええ、それしかレールがないと思っていたんです。それなのに中学のときに、そのレールから外れてしまっていたんです。

レールから外れてしまったときに、学校に行かなくても働ける仕事ってないのかなと考えて、囲碁を始めたんです。ちょうどその頃、囲碁を題材にした漫画がはやっていて、これって学校に行かなくても中学生とか高校生でプロになれるし、僕はこのまま学校に行かなくても生きていけるんじゃないかと思って、囲碁を本気でやったんです。

もうそれしかないので、めちゃくちゃコミットしました。その結果、かなり強くなり、段位としてはその当時、中学3年で5段くらいになって、全国大会優勝の高校から推薦をもらうぐらいでした。当時、どうやって勉強したかというと、インターネットを通じていろんな人に会いに行ったりとか、僕が中学生ということを知って面白がっていろんなところに誘ってもらったり、ネットを通じていろんな道が開けたんですね。学校に行って、いい大学に入って、いい会社に就職するというレール以外にも、いっぱい道があるぞ、ということに中学生ながらに気づきました。

中学3年生からまた普通に学校に復帰しましたが、色々な道があることに気づいたことはすごく大きかったなと思いましたね。知らない世界に飛び込むってなんか怖いじゃないですか。囲碁をやるにも、囲碁をやっている人もまわりにいなかったし。でも実際に飛び込んでみたらめちゃくちゃ世界が広がったなと思います。自分の知らないものに飛び込むのは怖いんだけど、飛び込んでみたら実際には何とかなる。それを機に中学に戻ったんです。行きづらいけど、行ってみたら何とかなるだろうと。

不登校の期間は半年ぐらいあったのかな。不登校の期間にも囲碁はどんどん上達していって、いろんなコミュニティーが広がっていくという中で、成功体験みたいなものができて戻れたのが大きかったです。そのときに、考え方がすごく広がったと思っています。いま自分が見えている世界は、ほんの一部の世界でしかなくて、他にもいろいろあるということに気づけたと思うんです。だから、僕の中では起業するというのはそんなに怖いことじゃなかったんですよね。中学のときから将来は自分で会社を作りたいなと思っていたし、そこに対してリスクを考えなくなった、というところがもともとの経緯としてあります。

最初のゲーム会社の立ち上げはハードシングス

――知らない世界でも飛び込んで見れば道は開けるという原体験ですね。それでIncubate Campのような場に参加されたということでしょうか。でも、今泉さんと村田さんとはいつ頃どういう形で一緒にやるようになったんですか?

村田:きっかけは、そのIncubate Camp2011年の秋口ぐらいに会ったときです。僕はゲーム会社を作ろうとしている方に出会って、一緒にコスモノーツという会社を作ることになるんですが、その初期メンバーをどう集めるかという話になったとき、Incubate Campにいた今泉さんがすごく優秀だという話になって、じゃあ、声をかけにいこうと。

――実際、村田さんは今泉さんのことも見てはいたわけですしね。

村田:そうですね。それで改めて会って一緒にやろうという話をしました。会社のスタート時のオフィスは、最近なくなりましたけど、サムライインキュベートのやっていた「Samurai Startup Island」という天王洲アイルにあるコワーキングスペースでした。これが1回目の会社のスタートですね。

――今泉さんは、そのときの決断は比較的早くできたんですか?

今泉:そうですね。学生だったので、とりあえず最初は手伝ってくれみたいなところから入ったんですよ。それでお手伝いに入ってみたら、全然まだゲームは完成していないのに、2カ月後にはリリースしないといけないみたいな中で、コードをぶわーっと書いていました。手伝いという軽い気持ちから入ったんですが、「自分が抜けたらこの会社、持たないな」と思って(笑)

村田:そうそう。ほぼ1人で作っていたようなものでしたね。

その頃のハードシングスはひどかったですね。2011年にスタートして、2012年の春ぐらいに1本目のゲームを出しました。そのタイトル自体がうまくまわらず、そこから同年の8月に第二弾の作品を出すんですけど、その2本目とかは完全に今泉さん1人で作っていました。結局、そのタイトルをリリースして、初月に40005000万円ぐらいの売上が出て、すごいぞってなったんですけど、翌月は3000万円弱と急にガツンと売上が落ちて。2本目のリリース前に今泉さんが会社に来なくなったこともありましたね。

今泉:1本目のタイトルを運営しながら、1人で2本目のゲームの開発をしている中で、仕様がどんどん追加されていくんですよ。無茶ぶりしても僕が何とか頑張って作るだろうという状態が続いて、嫌になって1週間くらいストライキしました(笑)

村田:そうそう。当時、DeNAのモバゲーとグリーがすごく盛り上がってプラットフォーム競争をやっていた時期です。20112012年でも割と過当競争に入っていたタイミングでした。当時、「セカンドパーティー」という仕組みがあったんですね。もともとITの開発部隊を持っている開発会社をDeNAが見つけてきて、そこにゲーム開発を任せるというスタイルでやっていこうという形です。立ち上げた会社はセカンドパーティーとしてやっていたんです。それで、DeNAの担当の方が常に誰か張り付いているという状態でした。プラットフォーマー、かつパブリッシャーという立場ゆえだと思いますが、要求レベルが高く必死に食らいついていくような日々が続き、相当ハードな状況でした。

――構造的にどんどんしんどくなっていった感じですね。

村田:こうやったらうまく数字が出せるはずだ、という仮説をプラットフォーマーとしてたくさん出してくれるのは、ありがたいのはありがたいんですけど、要求に応えられる体制が全然作れていなかった。要求が高い中で戦っているわれわれの現場は、もうボロボロで野戦病院みたいな感じでした。

社長失踪、立ち上げた1社目を清算してからの再起

――それで、どういう結末を迎えていくんですか?

今泉:2本目のタイトルを出して最初はうまく行ったんです。初月4000万、次の月で3000万とかね。でも、次の月に2000万と、どんどん落ちていくんですよ。落ちていく中で組織も崩壊……、いや組織崩壊というか、最初から崩壊しているんですよね。人が入っては辞めていく。ずっとワンオペで作っているみたいな感じだったので、組織も崩壊していて。

売上の数字が伸びているときは、辞めたから採ろうという余裕もあるんですけども、落ちてきていたので、そうもできない。新しいものを作るとなっても、僕らはブラウザのゲームを作っていたんですけど、当時は人気パズルゲームが出てきたりして、ネイティブアプリのゲームがどんどん伸びていってたんです。ブラウザゲームは市場としてもこれから落ちていくだろうし、ほかのブラウザゲームが現に落ちているという中で、どうにもならない。そうなっているときに社長が会社に来なくなってしまったんです。

――そういうことだったんですね。社長がいなくなってどうされたんですか。

村田:1週間も2週間も社長に連絡すら取れない状態になりあした。これはまずいぞ、と。それで2人で社長の家に見に行こうという話をしてね。それで実際に家に行って……、ところが出てこないわけですよ。

村田:何とかして家の中に入ったら、廃人に近い大変な状態になっている社長が出てきて……。人が真っ白の状態になるって、こういうことかというね。なので、2人で土下座して「もうやめよう」という話をしました。まだ会社にキャッシュはあったんですけど、もうやめようと。後は何とかしておくから、とにかく休んでくれという話を2人でしてね。

それで、もう会社は畳むしかないということになって、残っていたメンバーにも事情を話してね。残りの資産を全部売りに行こうということで、当時作りかけのゲームのアセットとかもみんなで手分けして売りに行きました。椅子とか机などの物理的なものも全部売りに行こうということで売り歩いたのが20133月ぐらいですね。

――最後、何もなくなるところまで?

村田:そうです、ホワイトボードと椅子だけを残してね。それで最後の最後に、当時の税理士も呼んで会社清算のプロセスと、会社法手続きの話をホワイトボードに書いていった感じでした。最後に「じゃあ、解散」と言って解散しました(笑)

そのとき、今泉さんと2人でタバコを吸いに行って、ずっと悔しいねって話をしましたね。思い出話をしていたときに「悔しいから、もう1回やろうよ」ということを互いに話をして決めて、その日は終わりました。その日は、今泉さんが会社を作って、僕がそこに出資するということだけをコミットして、あとは一緒に考えようってことになりました。

――今泉さんも同じような考え方だったんですか。悔しい、村田さんと一緒にやりたいという感じだったんですか?

今泉:そうですね。悔しいというのもあるし、ずっと走ってきたのもあるし、そもそも僕は最初から会社を作ろう、起業家になろうと思ってIncubate Campに参加していましたからね。どこかの会社に就職してというイメージはあまり自分の中には湧かなかったんです。それに、1度会社を失敗しているわけじゃないですか。投資家に対して迷惑かけている中で、もう1回やろうと言ってもらえるんだったら、僕の気持ちとしては「やります、やりたいです」っていうことで、即答でしたね。

村田:即答でしたね。

ブレストの中から出てきたGameWithのアイデア

――やることが決まっていて、これをやりますということではなくて、まず「やります」が先だったんですね。

村田:そうですね。そこから翌週か翌々週ぐらいにお互いプランを考えてきて持ち寄るところからはじめました。僕はたくさん考えてこようと思ってたくさん準備していって、今泉さんは僕より少なかったんですけどね(笑)

――そのブレストの中で、今のGameWithの事業の着想が生まれたわけですか?

今泉:そのとき村田さんが興味を持っている分野が20個ぐらいあって、それを見たら「ゲーム攻略Wiki」というのがあったんです。それが意外に思えて、「ゲーム攻略Wikiって、ベンチャーキャピタルは投資するんですか?」みたいな会話をしましたね。

村田:実際、そのときのマーケットはそうだったんですよ。アフィリエイターが新しいゲームがリリースされるとwikiを作って攻略情報を載せていくという感じで、個人が副業でやるビジネスという感じだった。

今泉:ゲーム攻略サイトを企業としてレバレッジを掛けてやれるとおもしろいなって思ったんですよ。村田さんが興味があるんだったら、これ、僕やりたいですって言ったんです。

村田:僕も今泉さんもゲームが大好きで、ゲーム攻略サイトを見ながらゲームを完走するまでやるということは昔から大好きだったんです。当時インキュベイトファンドでは割とたくさんのゲームスタートアップに出資していた時期と重なっていたのもあります。別の出資先のAimingという会社を2011年に立ち上げることになるとか、いくつかの会社があって、ネイティブアプリをみんな攻めて行くタイミングでした。そうなると集客する仕組みが欲しいけど、そこまで広告費を自分たちでまかなえない。ゲーマーが集まる突出した媒体があれば、ユーザーを獲得できる。そういう仕組みが需要としてこれから出てくるんじゃないかという話と、単純にモバイルゲームに特化した攻略サイト自体がなかったということですね。

人気パズルゲームが出てくる前は、みんなモバゲー、グリーにあったような、いわゆるソーシャルゲームしかなかったんですね。それが徐々に攻略Wikiがハマるマーケットになってきたよね、という話を、個人のゲーマー同士の感覚で話をしていて、「確かに、そうっすよね」みたいに盛り上がったという感じですね。

組織崩壊の経験から、立ち上げ初期は「共同生活」を開始

――そうやってGameWithがスタートしました。最初の立ち上がりは、どうでしたか?

今泉:まずは僕のほうでコンテンツやデザインのイメージを膨らませ、具体的にどういったサービスにするのかを考えていきました。それから6月のスタートに向けてメンバーも集めてきますと。後は物件を探しますと。

――物件というのは?

今泉:オフィスです。僕のこだわりがあって、前のゲーム会社は組織崩壊しているので組織崩壊をもうしたくないなと思っていたんです。家族みたいな感じでやりたいなと思ってマンションの部屋を借りて、そこに住む形で、リビングをワークスペースにして、それぞれの部屋に住むと。一緒に暮らしながら人生をともにしようみたいな(笑)

――起きてリビングに出たら仕事。寝るときは部屋に戻ると。

今泉:一緒にメシを食って、家族みたいな感じでやりたいなと。なぜなら、組織崩壊したくなかったから(笑)

――さすがに家族を呼んでくるわけにいかないから、友人を誘ったという感じですか。

今泉:いや、友人じゃないですね。創業のときに4人集めているんですけど、そのうち2人はほとんど会ったことがなかった人なんです。

――よく口説かれて一緒に住みますって言えましたね。変わっているような気がするけど(笑)

今泉:1人は変わっていて、もともと東京に住んでいたんですけど、東京の家がなくなっちゃって、群馬から通っている人がいたんです。「それ、しんどくない?うち来たら?家あるよ」って。

――住み込みは1社目の教訓があるからですか?

今泉:そうですね。あと、家があれば生きていけるじゃないですか。住み込めば家賃が浮くので、個人の収支面でのメリットも大きいと考えていました。

1ヶ月で100PV3ヶ月で1000PV1年後には1PV

――そこからどういうペースで伸びていくんですか?

村田:20136月に法人登記をして9月末日にサービスのローンチですね。

今泉:そこからは、1カ月で100PVぐらいまでいって、そこから3カ月で1000PVまで伸びましたね。

村田:1年たったときには、1億は超えている。

――いつまで4人で住んでいたんですか。

今泉:住んでいたのは資金調達をするまでだったので、半年ちょっとですね。

――村田さんは、その急激な伸びを見て、どんなことを考えていたんですか。

村田:さっきちょっと昔の資料を見ていたんですけど、会社を作る12カ月前に書いた、事業計画どおり、ドンピンシャで伸びて行ってたんですよ。「何だこれ?」って感じなんですけど。

立ち上がりから、こんなにトラフィックが来るんだったら、これはさっさと調達してもっとチームを作りにいこうよという話をして、それで投資家まわりを始めるんですけどね、それでもともとのきっかけのIncubatre Campで今泉さんをメンタリングをしたグロービスの今野さんのところに行ったんです。朝からピッチの練習で立たされたりしてしごかれた経緯があるから、2人でウキウキしながら「こんな風になりました!」と、成果報告っぽい感じで行ったんですね。

――おお、それで出資を受けられたんですか?

村田:いえ、「すごいね〜」と言われて「ありがとうございます!」という話にはなりましたけど、出資に関しては回答はなかったですね(笑)

――褒められたけど、ファイナンスにはつながらなかったと。

今泉:ぜんぜん合わなかったというより、時間軸が合わなかったのでしょうね。「検討しますね」という感じでした。

村田:そうですね。結果的にジャフコに出資を引き受けてもらうことになりました。ジャフコの担当の方に、年末近くに話をしに行ったんですね。そうしたら出資していただけそうな感じで、感触は良さそうだったんですね。そして年末年始にもトラフィックがガーンって、さらに上がったんですよ。年を挟む瞬間に、ものすごい伸びがあった。

プロダクト初期には、ぜんぜん人を増やさなかった

――そこからファイナンスをしながらチームを作っていくんですね。最初は5人?

村田:最初は、今泉さんを除いて4人がジョインしてくれていました。そのうちの1人は大学院に戻るとかで結果的に東大の大学院に戻って、そのあと就職しちゃうんですけどね。

1人目を雇うというとき、エンジニアを雇いたいということになったんですね。そうしたら若手で優秀なエンジニアを今泉さんが見つけてきた。それで年末一緒に飲みに行って、僕からも説得した。最後は無理やりハグして「一緒にやろう!」ってね。

――無理やりハグ……(笑)

村田:はは、でも、その結果来てくれましたね。

――その後も村田さんは採用には深く関わるんですか?

村田:採用は会社の成長と共に加速がついていきました。ただ、社員の人数そのものは、トラフィックが1PVとかになってもそんなに増えなかったという感じですね。フレームワークが今泉さんの頭の中にできていたので、それを実装しながらオペレーションチームを作っていく。途中から幹部社員を雇うべきなんじゃないかと言うことがあって、上場が見えてきたタイミングで採用を始めた感じですね。

――採用計画というのでしょうか、そこをとてもうまくやっていらっしゃる印象を感じますけど、今泉さんの中で前職や会社立ち上げの経験からの学びがあったということですか?

今泉:エンジニアをそんなにたくさん増やしても仕方がないというのは前職の経験でした。最初からばんばん人数を増やしていくと統制が取れなくなってくるんですよ。例えば、ピボットすることって結構あるじゃないですか。そういうとき、人数が増えれば増えるほどピボットしづらくなる。いろんなところに摩擦が生まれてしまうんですよね。

なので、最初のうちはプロダクトを作るための最少人数でやったほうがいい、というのはゲームのときに思っていました。56人のチームを作ってみても、実はほとんど特定キーマンがプロダクトを作っていたりするということって、どこの会社でもあると思うんです。だったら、初期の0→1のプロダクトはキーマンだけでやったほうがいいと思っていました。だからアルバイトは増やしたんですけど、社員はずっと5人とかでやっていましたね。

資金集め・組織づくりとプロダクトの役割分担

――創業23年の中でお互いに印象が残っているエピソードはありますか?

村田:創業前にヤフーの小澤さんに会ったら、ゲーム会社に投資をしたいという話をいただいたんですね。「ゲームのプラットフォームになるような、ばーんっと行けるやつないか、ばーんとさぁ」と急に言われたんです。それで後日今泉さんを連れて再度小澤さんに会いに行ったんですね。そうしたらCFOの大矢さんも出てきて、まだ会社もできていないのに出資するという話になって。

――「ばーんっ」と行くやつですね。

村田:「ばーんっと行こう」と言われて(笑)。そのとき、「うまくいったらヤフーがばーんっと買うから」って言われたんですね。これから会社を創ろうとするタイミングだったので、上場だ買収だと意識するよりもとにかくプロダクトに集中しようという感じでしたが、資本政策はこのときから確り意識するようになりました。

今泉:具体的に上場を意識しだしたのはサービスのPV1億くらいまで伸びたタイミングですね。広告の最適化をしだしてみたら単月黒字化できたんですね。これはもっといけるんじゃないかという話になって、どうするかは分からないけど準備だけでも開始しようとなりました。

村田:それで、上場にはこういうチームが必要でという話をしていたんですね。時期的には会社設立3年後くらいでしょうか。そうしたら今泉さんが「そういう上場チームに必要な人材は、ベンチャーキャピタルが連れてくるものなんじゃないですか?」って僕に聞いたんですよね。そんなむちゃなこと言うなよって(笑)

――でもそれ、村田さんの仕事じゃないですか?

村田:そうですね。僕の仕事じゃないですかみたいな感じの言い方をされて、そうかって思いながら(笑)、そうかもしれないって思ってたくさん連れてきました。それがすごく印象に残っていますね。

――なるほど。今泉さんの中で印象に残っている村田さんは?

今泉:村田さんの印象に残っているのはどれだろうな……。村田さんって役割としてはCFOみたいな感じだったと思うんですよ。なので、僕は資金調達を真面目にやっていないんですよね。ほとんど村田さんにやってもらっていて(笑)

村田:そう、ピッチの資料も僕が全部作っていましたし、シリーズABも全部作っていました。僕が投資家に説明しにいって「そろそろ今泉さん一緒に行きましょう」みたいな感じでしたね。

今泉:最初にヤフーに話しに行くというときも、資料は村田さんに作っててもらっていて、僕は資料を全く確認せずにヤフーの受付のところで初めて目を通して「あ、こういう資料なんだ」っていう感じでした(笑)

――それはすごい度胸が据わっている話ですね(笑)

今泉:村田さんが、ちゃんとそういうのをやってくれるんじゃないですかみたいな(笑)

村田:そうそう。VCがお金とか集めてくるんじゃないですかっていうむちゃぶりが常にある。会社としてステージを上げにいくタイミングで、そういうのを言われて「そうか」って思いながら動くというのをずっとやっていましたね。

――村田さんの中でも、一緒にバージョンアップしていっている感じもあったりするんですか。

村田:バージョンアップというのか分かりませんけど、チーム作りに正解はないという中で、どうやったら今泉さんが動きやすい組織を作れるのかなということはずっと考えていました。あんまり刺激的な人を連れて来ないようにとか、いい意味でゼネラルな人が入ったほうが組織がうまくまわるんじゃないかというのは考えてきました。

とにかく、経営者をやっていくのに一番大変なことって、決めていくことだと思うんですよね。決断の数が経営者を育てていくということは絶対にあるので、どういうふうに今泉さんが決めていくのかを僕も見守る、と。最初の頃は一緒にこうやろうよって言いながら決めていったものを、あえて自分から引くタイミングがありました。そういう話をした記憶があります。すごくいいタイミングで僕を除くチームがワークするきっかけになったんじゃないかなと思います。

起業家は、具体的なキーワードで株主を使いこなすことが大事

――テーマ「応援団を作ること」というのがあるんですけど、どういうふうにしてベストな応援団を作ってきましたか?

今泉:たぶん、そういうのは僕が苦手なところだったと思うんですよね。僕はプロダクトを作るのが得意なタイプで、人を巻き込むことに苦手意識があったんです。そこを村田さんに加担してもらいながら、僕はプロダクトに集中して、という感じで役割を分担していました。今でいうとエンジェル投資家とかスタートアップアクセラレーターとか、そこでいろんな繋がりができたり、応援団とかあると思うんですけど、当時僕は結構ステルスでやっていて、外との接点が村田さんしかいなかったんですよね(笑)

村田:外に触れてもいいことは、あまりないんじゃないかという話はしていましたね。起業家の横の繋がりができていいんじゃないかって思うこともあるかもしれないんですけど、どうしてもノイズになる。プロダクト自体が競争優位が持てるような状況になるまで、資金調達しましたとか派手に宣伝することよりも、そのお金でリソースを投下して、あっという間に伸びているという感じにしたほうが絶対強くなるだろうと思って、特に前に出て行くようなことってしなかったですよね。

――じゃあ本当に2人で会社を作ってきたという感覚がすごく強いんですかね。

今泉:そうですね。事業とかプロダクトは僕のほうでやっていて、ファイナンスや採用は村田さんに積極的に動いてもらった感じです。もちろん採用は僕もやるんですけどね。本当は応援団は作ったほうがいいです。僕は苦手なところから目を背けていただけなので(笑)

――ちゃんとそういうところを補完してくれるキャピタリストを探すとか、キャピタリストじゃなくても、応援団になる人を見つけることも大事だということですね。

村田:起業家が株主を働かせるというのは絶対に大事です。働かされた自分が言うのも何ですけどね(笑)

補完関係を明確に作って、指示に近い形でこうやってくれというふうにやったほうがいい。例えば仮説がどうとか、プロダクトをどうスケールさせるかっていう話をして、それがうまくはまるパターンもあるんでしょうけど、それよりも、もっとより分かりやすい「これをやる」「お金を集めてくる」「CFOを引っぱってくる」「監査役を引っぱってくる」という、いろんなキーワードに落とし込んでお願いしに行ったほうがピタッとくる瞬間はあるんじゃないかなと思います。

これはVCだけじゃなくて、エンジェル投資家だったり事業会社かもしれないですけど、そうした株主をばんばん使いこなすというのはすごく大事なんじゃないかなと思います。それはVC側としても本望なので。

最初の会社の敗因:戦略がなく経営もしていなかったから

――皆さんからいただいている質問がスライドにあります。ちょっといくつかピックアップしましょうか。

今泉:最初の会社がうまくいかなかった理由ですか? 戦略がなかったからですね。目の前のゲームを作るということに一生懸命になりすぎて、市場がどうなるかとか、経営というものをしていなかったですね。目の前のタスクをやっているだけで経営をしていなかったです。

――組織崩壊の原因は何だと思いますか。

今泉:やっぱり経営をしていなかったことですね。社員のマネジメントをしていませんでした。僕はゲームを作ることしかやっていなくて、人に教えるとか、マネジメントするということは全くやらなかったし、経営者らしいことは何もやっていなかった。目の前のことにせいいっぱいで、余裕がなかったですね。

――GameWithを立ち上げて、村田さんが社長で、今泉さんがCTOという役割もあったんじゃないかという質問ですけど、社長は今泉さんでということですね。

村田:それはもちろんそうです。インキュベイトファンドでは会社を立ち上げようとする人と、会社を作る前に出会って一緒に立ち上げていくというスタイルでやっています。今泉さんが起業家としてどういう仕事をする人なのか、どういう人物なのかというのも目の前で見て分かっていたので、ゼロから一緒に支援者としてやっていきたいと思いました。

――1番のハードシングスは?

今泉:上場するまでは、そんなにハードなことはなかったというのが正直なところです。人が辞めるとかはもちろんあるんですけど、やっぱりハードシングスって事業がうまくいかないときが一番ハードだと思うんですよね。事業がうまくいかなくて、人も辞めて、それが連動していくじゃないですか。前の会社と比べて、ということはありますけど、GameWithとしてはそんなに大きなハードシングスはまだ経験していないですね。

――じゃあ最後。村田さんが印象に残っている今泉さんの決断はありますか。

村田:やっぱり一番最初の決断ですよね。前の会社がつぶれて、自身もメンタルを崩してという状況でした。こんなに絶望的な状況はないという、もう漫画みたいな感じだったんですよね。会社精算のための最後の経営会議で、ホワイトボード1つを残して数人と話をして「じゃあ解散」と宣言して……、ほんとに漫画かっていうぐらいのね。そこから、その場で「もう1度、やりたい」っていうふうに言った今泉さんのその決断の結果、今があるのですよね。あれが印象に残っています。

リスク、つらいこと。でも向き合ってほしい

――最後に、これから起業家としてスタートされる皆さんにひと言メッセージがあればお願いします。

今泉:もしかしたらここに来ている人は、そんなに起業ということに対してリスクを感じていないかもしれないですけど、もし悩んでいる人がいるとするならばという前提で少し話します。

まずは潰れてしまった1社目の話です。結果的には外からみたら失敗という形になっているけれど、僕は飛び込んだことは全然後悔はしていません。飛び込んだことによって得られたもののほうが圧倒的に大きいんですよね。仮に失敗したとしても、自分にとって未知なところ、チャレンジングなところに飛び込んで全力でやれば必ず得られるものはあると思います。それがずっと人生の中で糧になり、続いていくと思うので、ぜひ勇気を持って一歩踏み出していただければなと思います。

あと、起業するとつらいこともたくさんあると思うんですけど、人生の中で考えたら、それほど長い期間でもないですよね。そのときはつらいと思っているかもしれないけど、1カ月経ってみたらまた見え方が違うかもしれないし、1年経ってみたら良い思い出になっていくということもありますよね。つらいこともあるけれども、ぜひそこから逃げずに立ち向かっていってほしいなと思います。つらいことも、時間が必ず解決してくれるというところをメッセージとして送りたいと思います。

自分にしか見えていないものでこそ、サービス立ち上げを

――今泉さん、人間味あふれるお話ありがとうございます。村田さんからもメッセージをお願いします。

村田:最近、toC向けのサービスを作っているスタートアップがあまり多くないですよね。資金調達もしていないし、資金調達抜きでも、新しく生まれたC向けのプロダクトってあんまりないよね、という話をさっきしていたんですね。

GameWith創業当時は今泉さんは23歳、24歳のときでした。その世代で、かつスマホゲームをめちゃくちゃやっている人にしか分からない、その人にしか見えないことが見えたからスタートできたものです。ゲームをやっている人はGameWithのことをみんな知っているんだけど、それ以外の人は全く知らない。それでもユーザーベースは数千万人います、というところまで全く目立たずにできたのは、これは結構会心の立ち上げという感じがあるんですよね。C向けのサービスって、たぶんそうあるべきなんじゃないかなと思っています。

メルカリも、そういう時期があったはずなんですよね。今の社会の感覚として、物を所有する時代よりも、どんどんリサイクルしていく、シェアしていくみたいな感覚に共感した人が多いから、どんどん刺さって行ったというようなね。その世代のネイティブな若い人、25歳前後ぐらいの今のインターネットに直接向き合えている人しか生み出せない発想で、通信業サービスを作っていくというのが、一番インターネットスタートアップらしい感じのイケているスタートアップという感覚があります。2019年の今でも、そういう何かがきっとあるはずです。その人にしか気づいていない真実を見つけてほしいなって思います。投資家とか横にいる起業家に「おお、すげえ」って言われるのではなく、ユーザーから圧倒的に支持されるようなものですね。それで数百万とか数千万のユーザーを作るみたいなことを仕掛けていく。この場にいる皆さんは起業するか、これからしようとする人ばかりだと思いますが、マーケットがこういうふうになっているから、こういうB向けサービスを作ろうというのもいいですが、自分の実体験とか原体験がある何か、その人しか見えていない何か見つけてスタートしてもらえると面白いんじゃないかなと思います。

――どうもありがとうございました。じゃあ、お二方にもう一度拍手を送っていただきたいと思います。

(会場拍手)

Zero to Impact編集部

寄稿者

VCが運営するスタートアップ・VC業界の情報発信マガジン「Zero to Impact」を運営しています。起業家の魅力や、スタートアップへのお役立ち情報を発信します。ベンチャーキャピタル「インキュベイトファンド」が運営。

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