スタートアップ資金調達の基礎Vol.7 選ばれるピッチ資料の作り方をテンプレートを使って徹底解説!
資金調達
学びコンテンツ
2020/07/29
Media
2019/04/14
執筆者:
Zero to Impact編集部
国内ビジネス系SaaSを代表する1社、名刺管理サービス「Sansan」といえば累計100億円を超える大型の資金調達を次々に実施し、印象的なCMで知っている人も多いことだろう。時価総額も昨年末に1,000億円を超え、「次のユニコーン」との声も聞こえてくる。
そんなSansanだが、実は創業は2007年と案外古い。2007年といえば、今のようなスタートアップブームの前夜で、リスクマネーの提供は今とは比較にならないほど少なかった。むしろネットバブルがはじけて、リーマンショックが起こる直前でもあった。そんなことからSansanは当初は堅実な積み上げ型ビジネスとして、早期に単月黒字を達成した。ところが上場も見えてきた創業4年目に「こんなはずじゃかった……」と創業者の寺田親弘氏は落ち込むことになったという。
創業前夜から起業家の寺田氏に惚れ込み、初対面で出資を提案した現インキュベイトファンドのジェネラル・パートナー赤浦徹氏と、寺田氏の2人が12年の歴史を振り返る対談イベントを行った。ハンズオン投資という言葉がまだ国内にほとんどなく、シード期の資金調達の出資者もきわめて限定的だった時代。そこから二人三脚で成長を遂げてきた2人の話は、日本のスタートアップエコシステムの短史という点でも、起業家・投資家のコミット強度の重要さという面でも興味深いものだった。
(対談は2019年3月22日にインキュベイトファンド主催で東京・六本木で行われた。会場には起業家や起業志望の若手・中堅ら50名が集まった。対談の聞き手はインキュベイトファンド HRマネージャーの壁谷俊則氏、編集はITジャーナリストの西村賢氏が担当)
プロフィール
寺田親弘(てらだ・ちかひろ)
Sansan株式会社代表取締役社長、共同創業者
三井物産株式会社に入社。情報産業部門に配属された後、米国・シリコンバレーでベンチャー企業の日本向けビジネス展開支援に従事する。帰国後、社内ベンチャーの立ち上げや関連会社への出向を経て、2007年にSansan株式会社を創業。
赤浦徹(あかうら・とおる)
インキュベイトファンド General Partner
ジャフコにて8年半投資部門に在籍し前線での投資育成業務に従事。1999年にベンチャーキャピタル事業を独立開業。以来一貫して創業期に特化した投資育成事業を行う。2013年7月より一般社団法人 日本ベンチャーキャピタル協会理事。2015年7月より同協会常務理事、2017年7月より副会長。東海大学工学部卒。
寺田:こんばんは、Sansanの寺田と申します。私は2007年にSansanを創業していますので、もう10年以上やっています。もはや、なかなかスタートアップと言っていただくのは難しいかもしれないのですけれど、赤浦さんとは2007年から一緒にやっています。
2007年から毎週、赤浦さんと週次定例会ををやっています。これを言うと微妙に引かれることがあるんですけど、12年間、毎週やっています。もちろん飛んだりすることもあるんですけど。
事業としては法人向けの「Sansan」という名刺管理サービスと、個人向けには「Eight」という2つのサービスをやっています。2007年の創業時に赤浦さんに出資してもらって始めました。
――その後、2009年に追加資金調達という形ですよね。創業2年ということで、今とだいぶ違う感じでしょうか。
寺田:ええ、2009年に今で言うシードですかね。5000万円以上を集めましたけど、時代が全く違うので、それも相当に大変でしたね。シードという言葉もなかったくらいで。それで2013年から2018年までの5年間で、シリーズA、B、C、D、Eと累計で100億円以上をぐらい調達しました。
この間に会社としては実は結構オペレーションが変わっています。創業の2007年から2012年までと、2013年から今まで、それから去年ぐらいからでは全然会社のオペレーションが違っています。皆さんの中では2013年からの印象が強くて、ガンガン資金調達して派手にやっている会社っていう印象だと思うんですが、実際には創業期には時代感の違いもあって全然いまと違うオペレーションをしていました。そのコントラストなんかも今日は、お話できればなと思っています。よろしくお願いします。
――よろしくお願いいたします。ありがとうございます。では、赤浦さん。
赤浦:どうも、インキュベイトファンドの赤浦です。そもそもインキュベイトファンドを始めたのが2010年で、Sansanの支援を始めたのは、それより3年くらい前の2007年です。といっても僕は1999年から独立・創業をしていますので、僕の経験の中では、独立してだいぶ経ってから寺田さんと出会ったという印象なんですよね。ちなみに『三井物産の寺田』さんの名刺を持っています。
1999年にファンドとして独立、創業して以来、一貫して創業期に特化して、投資とインキュベーションの活動をやっていまして、2010年から今のインキュベイトファンドのチームにしてやっている、という感じです。
――自己紹介、ありがとうございます。先ほど、2007年のSansan創業前から寺田さんとは会っていたという話ですが、いつ頃、どういう風に出会われたのですか? もう10年以上前の話ですけど覚えてらっしゃいますか……?
寺田:全然、覚えていますよ!
――鮮明に覚えていらっしゃるんですね。
寺田:2007年の6月創業なんですけど、恐らく3月ぐらいだったと思うんですけど……、どっかで開かれた、なん…かの…、イベントに行ったんですよ。
赤浦:全然覚えてないじゃん(笑)
(会場笑い)
寺田:赤浦さんを紹介してくれたのは、ウイングアークの内野さん(ウイングアーク1st株式会社 Founder&Chairman 内野弘幸氏)ですね。「赤浦さん、この寺田さんって今度創業するんだよ」って紹介されて。ただ、そのときはベンチャーキャピタリストだのなんだのって言われても「なんだよそれ」って思っていましたね。もちろん赤浦さんは自分のことはそんな風には言わないですけどね。
赤浦:僕のほうが覚えていますね(笑)、あれはね、2007年2月ぐらいのVentureBeatのイベントですね。
寺田:あ、それそれ!
赤浦:六本木ヒルズの49階です。
――すごい鮮明になってきましたね(笑)
赤浦:それで名刺を出したときにチャラチャラもせず、ちゃんと名刺と目を見て「じゃあ、出資します」って言って名刺を渡したんです。
寺田:それがだいたい嘘くさい(笑)。確かにそう言ったんですけど、そう言われて、なんか、この人すごいなって思いましたね。
赤浦:それで「すぐにミーティングをしよう」ということになり、すぐに会いました。当時は支援先のサイボウズに毎週火曜日に行っていたので、サイボウズの松山っていう会議室でね、「このあいだ話をした件だけどホントだから。ホントに出資するから」っていう話をしました。
――2回目に会ったときに念押しもしたけれども、どんな事業をやるのかは、まだ分かっていなかった?
赤浦:その時点ではまだ事業を聞いてないんだよね。
寺田:いやいや、2回目のときは話をしましたよ。
赤浦:いやいや(笑)
寺田:まあでも出会った瞬間に「出資します」っていう時点で、そんな人は信じちゃいけない話じゃないですか。「そんなのあるかよ」と思いますし、当時は別にベンチャーキャピタルでお金を集めようと思っていたわけじゃなかったんです。でも、電話連絡をいただいたりしてから、ちょっと調べられるじゃないですか。そうすると赤浦さんがサイボウズに出資して上場まで支援した投資家だと分かった。それならすごそうだなと思ったんです。確かにサイボウズの松山って角部屋みたいな会議室で「何をやるんですか?」っていう話をして「名刺のデータ化をするんです」と言ったら、「そういう地味なのを支援したいんだ」と赤浦さんが言ってですね。「ホントに出資します」と言われて、「どこまでこの人は本気なのかな」と思った記憶があります。
――赤浦さんは、寺田さんの話を聞いてピンと来たということなんですか?
赤浦:もう出会った瞬間にビビッときて(笑)。もう、ビビッ!と。
――それは顔つきが違ったとか、やっぱり何かあったんですか?
赤浦:そうですね。直感で、もう「来た!」って思ってコミットしました。
寺田:それで「会社できました」って連絡をしたのが2カ月後とかですね。
赤浦:「とりあえず5人でやるんで、チームのメンバーに会ってくれ」って連絡でしたよね。それで六本木の交差点にある中華で会いましたよね。Sansan初期メンバーのみんなに会って話をしたとき、いきなり事業の話をして「いま考えている事業計画を修正しろ」、「こことここにフォーカスすべきだ」みたいな話をして、全体をもっと絞ってどうのこうのとか、ワーッて言って。
寺田:僕はもともと三井物産にいたんですけど、その間尺から比べたら、財務もだいぶ小さく作ったつもりの事業計画に対して、「そんなにデカい計画を立ててどこに行くんだ?」みたいなことを言われたんですよね。「いや……、ええっ!?」と戸惑いましたね。そうしたら赤浦さんが「まず100社とってキャッシュが回るようになればいいんだ。そこからなんだよ!」みたいに力説されて。「そこで気持ちが前向きになる。銀行にお金が増えていったら嬉しいでしょう?」みたいなことを言われたんですよ。もう、ワーッて畳み掛けるように言われて(笑)
言われたこちらは、「ああ……」みたいな反応でしたね、バカみたいですけど。でも、「なんか正しい感じするな」って思ったんです。「すごく正しい感じがするな」と思った。
今でいう「リーンスタートアップ」的なことですよね。当時は、そんな言葉はなかったんですけど、要するに「小っちゃくやって、実証して、そこから先を考えればいいじゃないか」みたいなことを、ひたすら言われて「……なんか……、でも、正しいな」って。だから結構ショックを受けましたね。中華料理屋での食事が終わったあと、近くの雑居ビルのマンションみたいなオフィスにチームのみんなで戻って「ちょっと一晩考えよう」って言って、それで家に帰ったわけなんです。
――衝撃だったんですね。
寺田:衝撃的でしたね。しかも「仲間に入れてくれ、出資する」と言うんです。別に出資とか決まってないけど、すごい勢いで言われた。「何なんだ。でも正しいよ、あれ」みたいなね、そういう感じでした、そのときは。
それで給料の取り方から何からガラッと変えて、計画を小さくして、とにかく1年で確実に100社の顧客をとって1期目の最終月で単月黒字にまでなろうということになった。
――12カ月後に?
寺田:ええ、12カ月後に。いま考えたら積み上げのSaaSビジネスで1年後に黒字っていうのは、ちょっと違いますけどね。当時は創業メンバーの給料ゼロでしたしね。今のスタートアップの資金調達環境とは、ぜんぜん違いましたからね。
赤浦:CEOと、ナンバー2のCOOが1年間は給料ゼロで、後の3人は給料15万円。みんな、それなりの収入だった人たちです。
当時サイボウズが、いかにリーンに立ち上げたかっていう話をしたんです。サイボウズは社長が3カ月は給料ゼロで、当時の副社長たちも半年は給料ゼロだったという話をしたんです。そうしたら寺田さんは5500万円も個人で出資して事業を立ち上げようとしているにもかかわらず、給料もゼロなんですよ、しかも1年間。COOの富岡さんまで付き合わされて……、っていう感じだったんです。
寺田:これね、こんな話を聞くと皆さん絶対に起業したくなくなっちゃうと思うんですよ。だからもう、その話はやめましょう(笑)。それに、給料ゼロみたいなのは、当時そういう時代だったということですね。当時は、それで良かった。
小学生のときから「天下を取る」と思っていた寺田少年
――でも「当時は」と言いつつも、そこまでして、やり切ろうというのは並大抵の覚悟じゃないですよね。三井物産はいい会社だと思うんですね、収入的にも。それを捨ててでもやろうと思ったのはなぜですか。いつぐらいから起業したいと思っていましたか?
寺田:もともと起業志向でした。だから別に何か理由があって三井物産を辞めたとかじゃなくて、三井物産に入社した時点でいつかは起業すること自体は決めていました。
――ということは学生のときから起業を意識していた?
寺田:昔からです。小学生ぐらいからです。僕の場合は親が事業をやっていたので。
――経営されていたんですね。
寺田:会社をやっていました。芸能人の子が芸能人になったり、政治家の子が政治家になったりっていうのは、批判もされたりもしますけど、親の仕事が当たり前に見えているのですよね。企業経営もそんなに大変なことに思えなかった。単純に少年の心で、戦国時代の本なんかに「天下を取るぞ」と書いてあるのを読んで、「俺もなんかでっかいことやりたいな。じゃあ現代においては、会社を作って世の中にインパクトあることをやるんだ」って思っていた。環境がすごく大きかったと思います。
赤浦:出資しますと言ったときもね、別に寺田さんについて何かを詳しく知っているわけでもないし、フィーリングでしかなかったわけですけど、寺田さんは子どもの頃から親に「将来何をやるんだ」って聞かれたら、「天下を取る」って言っていましたと言うんです。僕、それがすごく印象に残っていて「何をやるかはわからないけど、とにかく天下を取りたい人なんだな」っていうのをずっと思っていましたね。
――いつか自分で会社を作って大きなことをやるぞ、と。そういう意味では三井物産には目的意識を持って入ったっていうことですよね。
寺田:そうですね、いま考えたら失礼な話ですけど、そう思っていました。
――三井物産ではシリコンバレーにも良く行かれていたというお話ですよね。
寺田:そうですね。1年半ぐらい行っていました。アメリカのソフトウェアベンチャーを日本に持って来ようということで、普通にコールドコールをかけて。それが100社ぐらいになりましたね。
そのときに強く思ったのは、アメリカのスタートアップ企業が世界観ファーストというか、ビジョンファーストだったということです。当時、僕が訪問した会社は5人から100人くらいの会社でソフトウェアの企業が多かったんですけど、なんかみんな世の中に対して、これがしたいとビジョンの話をしていて「ちょっと商品を見せてよ」というと「これから作るんだよ」みたいな返しが来る。逆に、日本では昔も今も、技術はあるんだけどマーケティングが下手ということがありますよね。
――「これができます」の話が長いですよね。
寺田:長いですよね。それがシリコンバレーは真逆なんだな、というのはすごく感じましたね、当時。「そういう問題じゃないんだな、どうやら」と思ったというか。
――では、Sansanのビジネスを考えたとき、どういうビジョンが見えていたんですか?
寺田:創業した後に良く思ったのが、コンセプトとかビジョンとか世界観とか、そういうものをB2Bでも売って行くんだっていうのは強く意識しました。ただ、ビジョンの話もありますけど、ビジョンで飯は食えないので、本当にシンプルに地に足をつけてやることを赤浦さんには言われました。ずーっと、長い間、そう言われました。別に「言われました」って、そんなに上から言われたわけじゃないですけど。
赤浦:シンプルにね。
寺田:すごくシンプルな感じでしたね。今でも「赤浦さんって本当に物事を複雑に考えない能力に長けているな」と思うんです。「そんなに世の中シンプルじゃないでしょ」って思うこともあるけど、よく考えたら「確かにそうだな」ということは、すごく多い。だからビジョンとか戦略とか大きな話がある一方で、創業当初なんかぶっちゃけB2Bだからお客様に売らなきゃいけないんですよね。それを赤浦さんは普通に汗をかいて一緒に売ってくれたんです。
――一緒に売ったんですね。
寺田:普通にアポをとって、ひたすら営業を一緒にしてもらうみたいな感じでした。多分、最初の100社のうち、3〜4割は赤浦さんに取ってもらったぐらい……。
赤浦:いやいや、50、60社ぐらいあったんじゃないですか?(笑)
寺田:赤浦人脈からという話なら、もう7割ぐらいは確実ですね。僕は三井物産にいたわけですけど、そのとき、いろいろな会社に対して大所高所から偉そうなこと言って、後はお任せみたいなことやっていたので、投資家っていうのはそういうもんかと思っていた。だから最初からベンチャーキャピタルからの投資なんて入れるイメージはなかったんです。赤浦さんは違っていて、細かく数字をみて一緒に汗をかく。今のVCでいうと、そこまで珍しくないアクションかもしれませんけど、当時は「投資家ってこんなこともしてくれるの?」という驚きがありましたね。
――初期のハードシングスはいかがですか? 苦労した話とか。
寺田:こういう質問はいちばん困るんですよ。なんと答えていいのか分からないんです。なぜかというと「今も大変だしな……」みたいな。「あれを乗り越えて今の俺があります」みたいな感覚は本当になくてですね……。かといって悲壮感が漂うものじゃないですけどね、やっぱり、目指しているものに対してできていることが、まだまだなので、当時と今でそんなに違いはないなというのが、まず前提としてあります。
そうはいっても、だんだんビジネスの形になっていく上で大変だったことを振り返ると、そうですねぇ、例えばサービス開始から1、2年ぐらいしたら「OEMでも始めたの?」って知人に聞かれてね。某メーカーがSansanに似たサービスを出してきたんですよ。「これはまずいかもな」という競合出現的なこともありました。
それから僕らの場合は、いわゆるテクノロジーだけじゃなくて名刺を手で入力をするというのがあって、これ、ものすごく大変なんですよ。もう本当に大変。4年ぐらい前までは、「ヤバい、大洪水だ」ということがあると、夜中にみんなで手作業で入力するぐらいの感じでした。名刺の入ってくる流量に対して処理できないとか、コスト爆発みたいなこととか、そういうものに対処していくのは大変でした。今でいうチャーンレートもね、「名刺をスキャンしたらデータ化してPCと携帯で見れるんですよ、便利でしょ」と言って導入してもらっても、「そんなデータ、これじゃ誰も使わんでしょ」とか言われたりね。
いろいろな会社に行って「名刺を出してください」って言って、机の引き出し開けて勝手にスキャンするとかね。毎日10時間スキャンするとかしていましたからね、僕ら。とにかくどうやって使ってもらうかを含めて、毎日まいにち全部に必死でした。
最初の3年ぐらいまでは、1日8アポをどうやって入れるかを考えていたんですね。9時、10時半、11時と、とにかく8個入れて売りまくる。スキャナーとタッチパネルのPCを、キャリーバックに入れて持ち歩いていたんです。お客さんのところに行ったら「とにかくちょっと接続させてもらっていいですか?」って言ってバーンって設定して、「これがそうです」って説明する、ということを毎日やっていました。
――寺田さん自らがキャリーバックを持って?
寺田:もちろんですよ。名刺スキャンもしていましたし、ありとあらゆることを全方位でやっていました。とにかくモデルを作って回して、使ってもらってっていう繰り返しですよね。マーケがあって営業があって、CSがあってという。当時あんまり業界でのベストプラクティスというのもなかったので、手探りでやってましたね。
――何年ぐらい、そういう生活を?
寺田:2、3年はそうでしたかね。
――結構長いですよね。
寺田:だんだん「営業をしない」って決めました。でも多分それもすごい重要なことで、自分の時間の使い方を明示的に切り替えていくっていうのは、やってきていますね。今もそうです。あるときから営業は一切しなくなりましたし。
――そのときは、赤浦さんは、どういう声をかけながらサポートされていたんですか?
赤浦:なんか、大変だったみたいな感じでカッコ良く言っているから、僕が全部バラすとですね(笑)
(会場笑い)
赤浦:そもそもですね、なんでリーンスタートアップしたかっていうと、まず大前提として、当時は今と全然環境が違っていてシード期に投資をする人なんて誰もいなかったんですね。だいたい僕か、そのとき一緒に始めた和田か本間(編注:インキュベイトファンド創業時から現在までジェネラルパートナーを務める)か、後は、そのちょっと後になってくると、サムライインキュベートの榊原とかがいますけど、だいたいウチの関連ぐらいしかシード期に投資している人はいない時期でした。
そんな中で、なんとかビジネスの形を作らないとお金が調達できない。で、何とかビジネスモデルを縮小してもらって、コストも本当に極限まで下げてもらって、それで何とかギリギリっていう感じだったんです。
赤浦:でも実はですね、Sansanは1度、お金がショートしているんです。ショートしそうだったときに言ってくれないからショートした。
寺田:どこかでは言おうとしていたんですよ。
赤浦:資金ショートですよ。で、結局僕が調達してくるんですけど、一緒に調達で動くんですけどね。
さっき言ったように、最初にまずビジネスモデルを小さくしてもらいました。営業の初期は本当に10社中7社ぐらいは僕が行って取ってきたんですよね。プロダクトをまずシンプルにしてもらって、最初のお客さんをつけて、次に声をかけてお金を引っ張ってくるんですが、そこが一番苦労したところですね。最初の調達が今までで一番大変だったかなっていう。
寺田:これ、言っておかなきゃいけないですけど、2007年とか2008年ってリーマンショックの時期なので、ぶっちゃけ裏側的にはだいぶへこんでいた時期です。それで「このまま行くとボーナスが払えないかもしれない」ということがあって、「まずい、本当にお金がないな.......」って言って、「借りに走るか」っていうことになったときがある。本当に銀行を回ろうかと思った。
そのときに赤浦さんに言われたことを僕は一生忘れないと思うんです。1500万円ぐらいだったんですけどね、必要なお金が。そしたら赤浦さんが「寺田さん、そんなつまらないことに時間を使わないでください」と言ったんです。「それは俺が貸しますから」って。
個人で貸す……、って言われて、「はっ!?」ってね。ちょっと、また言ってる意味わからないんですけどって(笑)
(会場笑)
カッコ良かったですよ。「そんなつまらないことに時間を使わないでくれ。俺が貸しておくから」って。「すごいな」と思って。結局そのお金はギリギリ使わなくても済むぐらいのキャッシュマネージだったし、もちろんそのお金はきちんと返しましたけど、そのときのことは、すごく覚えていますね。
――「すごい」っていうのは、VCの覚悟を感じたから?
寺田:そうですね。だってすごくないですか? 個人でそんなにお金を貸すなんて。俺たち全員、すっごいシビれましたよ。「振り込んでおきました」という電話をもらって、ホントに口座に入っていて、すごいなと思いました。あのとき金策に走っていたら、2カ月ぐらいは使っていたと思うんですけど、本業に集中させてもらえましたね。
――創業で4、5年目ぐらい、順調に事業も立ち上がってきて、IPOも考えてもいいんじゃないかっていうところで、方向転換をしたんですよね?
赤浦:リーンなところから順調に立ち上がって黒字になったんですね。黒字で上がって行っていたんですけど、ある週次ミーティングで会ったときに、寺田さんが「いや、こんなはずじゃなかった」と言って落ち込んでいるんですよ。
――うまくいっているのに?
赤浦:落ち込んでいて。順調に来ていて、このまま行くと、14億になり、15億になり、20億、30億になって上場もできるだろうというのに、「それは分かるけど、僕はそんなことのために起業したんじゃないんだ」って言って、寺田さんが落ち込んでいたんですよ。「僕の人生、こんなはずじゃなかった」って言って落ち込んでいたんです。
――寺田さん、本当ですか?
寺田:本当です。さっきも言いましたけど、目指してるものに対して全然届いていないって、これは今もそう思っているんですよ、本当に。そのときはもっと必死に思っていた。「なんかこれ、しょぼいことになってきたな」「え、これ、なに!? 積み上げるって、なに、えー?」って。
――でも創業メンバーは、しょぼいことになっているとは思ってないですよね?
寺田:いや、思っていましたよ、みんな普通に。たぶん今も、みんな思っています。これ、何だっけ、これ、なんかしょぼいぞっていうのは思っていました。
――自分たちが思い描いている期待値とか到達点と現状を比べてギャップがあるっていう話ですよね。
寺田:創業期のときに見えているものって、もっと馬鹿デカかったり、もっとうすらボンヤリしているじゃないですか。だけど、このまま普通に行ったら、そのへんにある会社になっちゃうぞって思ったんです。
――普通のいい会社
寺田:別にいい会社なんか作りたくて始めたわけじゃないんだと。もっと世界にインパクトを与えようと思ってやっていたんだ、と。その2つは似て非なるゲームなんだと。だから、「もう会社が潰れてもいいからやるぞ」みたいなことを言ったのを覚えています。そういう気持ちでした。
リーンに黒字を出しながら回そうとすると、確かに質感としては、きちんとしたいい会社ができあがっていくんですよね。しかも当時、それしか方法がなかったのは間違いないんです。でも、後付けなんだけど、とにかく忸怩たる思いがありました。
それで思い出すのは、栗城史多さんっていう登山家の方の話です。去年亡くなられてしまったんですが。京都で開催されたスタートアップのイベント「IVS」で講演されているのを聞いて、号泣してしまったんです。「この人すごいな、命懸けてるんだよな」って。「自分にこのくらいの覚悟はあるんだろうか、何やってるんだろう」みたいに思って、当時のいろいろな思いと合わさってバキッと切り替えようと思ったのは覚えてますね。
例えば、当時Eightを始める直前だったんですけど、最初は全部無償で提供しようとは思っていなかったんですね。だけど、「そんなもの全部無償でやらないと誰にも使ってもらえないだろう」みたいな意思決定をしたり、シリーズAで調達した5億円を全部テレビCMに突っ込んだりとか。
赤浦:「しょぼい」っていう発言までに使ったお金が、最初の創業のときの自己資金を合わせても1億数千万円とか2億数千万円程度。そこまでリーンにできたけど、「しょぼい」って話になって、じゃあ追加で資金調達をしようということになったんですね。バリュエーション40億円で5億円調達するぞっていう設定を、たぶん僕がしたんですよ、あれ。で、そのお金で勝負にでようと。「OBCはなんでテレビCMやっているんだっけっていうのを、ちょっと調べてくれ」という話をしたら、寺田さんがOBCの人に聞きに行ったんですよね。
――今でこそスタートアップ企業でもテレビCMや交通広告を打つところはありますけど、当時はなかったですよね。
寺田:テレビCMなんて当時は本当に会計ソフトだけでしたね。OBCの勘定奉行とか、JDLとか、そのぐらい。
―それを決断できたのは。
寺田:OBCに行って聞いたら、使っている金額がヒト桁億円だったんですよね。「その金額に対してあれだけインパクトがあるのか」と思って、やりようがあるんだろうなと思いました。クリエイティブがキーだろうな、とかいろいろ考えたりね。
当時はSaaSのマトリクスなんて概念がなかったんですね。それこそ「売り上げいくらです」って言ったら、SIの売り上げと比較されちゃうぐらいの時代ですから。そこの違いも誰も分かっていないっていう時代でした。
でも、こっちは自分たちである程度わかっていて、手元のチャーンレートと単価、それに対する粗利、それからライフタイムバリューを考えたら、このぐらい取れるんだな、そうしたらCMに5億円を使ったとしても、200件の新規顧客が取れれば元が取れるじゃんって。どう考えても200件取れるよねと。
――計算は合うと。
寺田:ライフタイムなので回収に5年とかかかりますし、直近で手元は赤くなりますけどね。でも、計算は合う。今だと誰でも当たり前に考えることだと思うんですけど、当時はゼロからオリジナルで考えなければいけなくて。
ただ当時思ったのは、名刺管理っていうのは古くて新しい課題ということですね。赤浦さんがずっと支援しているサイボウズは知名度は高いですけど、それでも『グループウェアのサイボウズ』と言っても、ほとんどの人が分からない。でも『名刺管理のSansan』って言ったら、ひと言で聞いて分かります。そういう課題を解決しているんだから、CMをきちんと作って突っ込めば、普通にファネルが大きくなって200件ぐらい取れるでしょうっていうことですね。もちろんギャンブルをしたつもりはなくて緻密に計算して踏み込んだんですけどね。
――もう残り時間も少なくなってきて、寺田さんにお聞きしたいんですが、創業時にVCに入ってもらったという話を含めて、会社の応援団ですね、応援団をどうつくって行くかという話をお願いします。経営者にとっては、採用をする従業員もそうですが、株主など自分の会社の応援団をどう作って行くかは非常に大事な視点です。
寺田:気合いですよね。気合いが入っていないと誰も応援してくれません。本当に真摯に向き合っているかということです。僕もいい歳になってきて、いろいろな起業家の人から聞かれますけど、気合いが入っているかどうかっていうのは、だいたい話をしたら、何となく分かる。気合いが入ってないと、まず応援してもらえないですよ。身も蓋もないないけど気合いかな。後はシンプルに考えるってこと。これは赤浦さんにずっと教えてもらってきたことですけど。
赤浦:あとね、嘘をつかないこと。
寺田:嘘をつかないね。
――シンプルに考えるって、結構気合いのいることですよね。
寺田:気合いのいることですよね。
――ですよね。捨てないといけないものがあるっていう話ですからね。
寺田:だから気合いが入っていると応援してくれる人がいて、重要な人に応援してもらうと、ものごとを複雑にしないで済むっていうのはすごくあります。それは、ずっと赤浦さんにやってきてもらっています。今でもそうです。応援してもらう人をどう選ぶかという点でいえば、本気で手伝ってくれる人ですね。起業して成長していく過程で必要なものって、やっぱりリソースです。人とお金を集めなきゃいけないので。
赤浦:寺田さんがここまで来る過程の中ですごかったのは、人を集めるっていうところ。人もお金もなんですけど、最初の2、3年は営業ばっかりやっていた。その後は、ほぼずっとハイアリングですね。徹底的にハイアリングして、いかに優秀な人をとるかっていうところを、メチャクチャやっていましたね。もう寺田さんが自らがFacebookでいい人を見つけたら、そこに「Sansanの寺田ですけど」って言って「一緒にやりましょう」とメッセしちゃうぐらい、めちゃくちゃハイアリングをしていたんです。
赤浦:僕の役割は逆にお金のほうの調達で、常にバリューションと金額の目安を決めて、それでやろうっていうことで、40億円のバリュエーションで5億円を集めきるっていうところの入り口をしっかり作った。次にバリュエーション100億円で10億円。でもね、200億円で20億円を調達するって言ったとき、なんとですね、寺田さんに怒られたんですよ(笑)
――何で怒られたんですか?
赤浦:「赤浦さん、何を根拠に2倍に上げるんだ」と(笑)。「(自分たちのビジネスの数字は)何も変わってないじゃないか」と。
寺田:ありましたね、そんなこと。
赤浦:僕が、「これでイケる」って言っているのに、「それはおかしい」「何を根拠にバリュエーションを上げるんだ」ってメチャ怒られて。でも、ちょっと待てと。今まで1回でも調達できなかったことあるかと。できてるじゃないか、これで間違いない、これで行くんだって僕は言ったんですけど。
結果どうだったかというと、資金調達が終わってみたら、プレマネー200億円で20億円の調達ができて、「あれ? 300億円にしておいても良かったね」って感じでしたね。
寺田:それ、ありましたね(苦笑) 「そんなムチャクチャな数字を言わないでください、できるわけないじゃないですか」みたいなことを確かに言いましたね。
赤浦:その後さらに倍にして、500億円で50億円をやって、直近でさらに資金調達をやってるんですけど。
――寺田さんから何か、会場にお越しの起業志望の皆さんにメッセージがあれば、ぜひ。
寺田:さっきも言いましたけど、僕も全然まだチャレンジャーだと思っていて、なにか成した気はしていません。こんな高いところからメッセージを言えるほどの立場じゃないとは思うんですけど。
ただ、言えることとしては、今は非常にスタートアップがやりやすい環境だし、赤浦さんのインキュベイトファンドみたいなVCもあれば、支援がいろいろあるじゃないですか。だからもう『やらなきゃ損だろ』という感じかなと思うんですよね。別にリスクなんかない。たぶん、みんな頭で考えれば分かるんです。起業するとかチャレンジすることにリスクってほとんどなくて、リターンしかないわけですよ。昔だったら個人保証をつけて、家を取られるとかあったかもしれないですけど、今はないじゃないですか。ほとんどリスクがないんだからやってみたらいいし、どうせやるんだったら気合いを入れてやったらいいんじゃないかなって思います。
――起業する前に、自分にこれは問うておいたほうがいいよ、ということは?
寺田:今のまま行った『最高の』ベストシナリオを想定してみるということですね。三井物産を辞めるかどうしようかと思ったときに、「待て」と考えたんです。俺、このまま三井に残ったら何が起きるんだろうなと一応考えてみようと。いずれ起業するつもりで入社しましたけど、それでも死ぬ気で仕事していましたし、それなりに評価もしてもらっていたんですよね。だから、ベストケースは社長だなと。それで「社長かぁ」と想像してみた。「今のままベストを尽くして、全てが本当にうまく行ったら三井物産の社長だな」と仮定してみたんです。そのポジションは全然俺である必要がないなと思ったんですね。俺じゃなくてもいいようなことに、俺の人生は使えないな、と。だって寺田でなくても、吉田さんだって、原さんだっていいでしょと。じゃあ、俺は自分でやろうと思ったんです。ポイントは、最高のベストシナリオを本当にリアルに想像してみることです。これは結構オススメしています。最高のベストシナリオで想定したその先の自分に、意外に魅力を感じなかったりするはずです。
――寺田さんはその最高のベストシナリオを描けていたからこそ、途中でSansanのギアを変えることができたんでしょうか。
寺田:それはそうですね。このまま行ったらどうなるかという察知能力でしょうか。このまま行った場合のベストシナリオを考えて「イマイチだ」と思うときに気合いが発動しますね。
――やはり「気合い」ですね(笑)。そろそろお時間がきましたので、最後に謎かけでもして終わりましょうか。えーっ、企業さんが持っている古い名刺のファイルとかけまして、今日の赤浦さんと寺田さんのお話から感じたこと、と解きます。
寺田・赤浦:???
赤浦:そのこころは?
――「厚い、重い」(熱い思い)です。
寺田:……、なるほどー!!
――寺田さん、赤浦さん、改めましてありがとうございました!
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